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遠藤周作が生々しくも淡々と描く戦時の日本で本当に行われた人体実験を元にした小説『海と毒薬』

物語の舞台は九州にある大学病院。その病院は空襲を避けるために黒く塗りつぶされ、海鳴りが響く場所。

大学病院の教授橋本の下についていた若い医師の勝呂、関西出身の戸田は、橋本が医学部長に王手をかけるために行った手術に失敗したことをきっかけに人体実験に巻き込まれていきます。

 

この物語に生々しさを与えるのは登場人物たちを補強するように綴られる過去の生い立ちです。

開業医の息子として何一つ不自由なく育ってきながら罪悪感というものを強く覚えたことがない戸田のような、俗にいうサイコパス的な男だけが事件の中心にいたのではなく、結婚しながらも死産を理由に子宮を失うこととなり子供を産めない身として看護師に復職した女性などごく普通の、むしろ悲劇的な立場にいる女性も事件に関わるのです。

人体実験を主導する立場となってしまった橋本教授にしても大学生の頃にドイツに渡り、そこで知り合った妻との間に子供を設けているごく普通の順風満帆に生きてきた人間です。

しかし、彼らは軍から持ちかけられたB29搭乗員の解剖実験を行ってしまうのです。

 

勝呂たちが行うこととなったのは搭乗員の片肺を切除するというもので、どこまで切れば人は死ぬのか、という検証をするためのものでした。

健康診断だと言われてやってきた被験者は悪人などではなく朗らかに笑っているほどで、その様子を勝呂の目を通じて見る読者は勝呂の追体験をすることとなります。

無影灯の光のしたで切り開かれていく肉体、切除される骨などが非常に生々しく描かれる中、勝呂は自分がすることが医療行為などではなく殺人だということに漸く怖気付き、手術から現実逃避を行いました。

今にいつも通り止血がされるのだ、絹糸が傷跡を縫い合わせていくのだと勝呂は懸命に妄想しますが、それは被験者の死亡により打ち切られることとなります。

 

先にも書いた通り、勝呂は医師として異常なのでも人として外道なのでもなく、むしろごく普通の男であり貧しい患者たちへの思いやりもあれば、富裕な患者が個室で寛ぎ手厚く看護を受ける一方で貧しい患者が畏まって医師の処断を受けることに義憤を覚えることもあります。

しかし、自分の師である橋本教授から誘われてしまった人体実験の恐ろしさを、その実態を理解しないまま彼は手術に挑んでしまったのです。

 

これは過去にあった話などではなく、現在にもありえることなのだと、読了後にはゾッとするような感情が胸に落ちてきます。

ショッキングな内容ではありますが、決してグロテスクでもナンセンスな誇張があるのでもなく、あくまで手術の描写は客観的であり、死もあっけなく描かれていますが、人が簡単に流されて恐ろしいことをしてしまう、そしてその現実に直面するまでは麻痺したかのように現実として捉えられない、そうした内面が丁寧に描かれていることが、物語へ深みを与えています。